歴史が苦手な私が語る細川ガラシャのお話

今回は歴史が苦手な私が京丹後市に「幽閉の地」がある細川ガラシャのお話をします。

細川 ガラシャはあの本能寺の変を起こした明智 光秀の娘であり、本名は「明智 玉」(または玉子)といいます。ガラシャはお父さんの主君であった織田信長の発案によって細川忠興という人と結婚します。2人とも美男美女だったので「人形のように可愛い夫婦」と言われていたそうです。結婚した翌年には2人の間に長女が、その翌年には長男が生まれ幸せな時間を過ごしていましたがガラシャの父が起こした本能寺の変で状況は一変。ガラシャは「逆臣の娘」となってしまい、忠興により幽閉されてしまいます。

そしてその幽閉されていた地が京丹後弥栄町の「味土野」なのです。

私は今回、ガラシャが隠居生活を送っていた屋敷跡「女城跡」やガラシャを警護する武士がいた「男城跡」に行ってきました。

ガラシャが隠居していた屋敷があったと言われる女城跡、そこには「細川忠興夫人隠棲地」と書かれた石碑がありました。

女城跡からは男城跡が見えます。

敵が攻めにきてもすぐ助けられるよう見える所に屋敷が建てられていたんですね。父の謀反により「逆臣の娘」となったガラシャですが本当なら幽閉よりもっと酷い現実が待っているはずでした。ですが忠興は愛する妻を手放せず幽閉するだけにどどまったのです。

女城跡の下にはガラシャが使っていたと言われる「ガラシャの古井戸」や宮津高校の生徒が製作した「ガラシャの東屋」と言われる休憩所があります。

女城跡から30分ほど歩き男城跡が。(山道なので歩くというより登ります。)敵が来てもすぐわかるように女城跡より高い位置にありました。

ガラシャは2年幽閉されたあと、大阪の屋敷へと戻りますが16年後、関ヶ原の戦いで命を落とします。

敵である石田三成に人質に取られようとされるガラシャですが忠興の「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、わが妻とともに死ぬように」)という命を守りそれを拒否します。そして、ガラシャは城の女性や子供たちを逃したあと、「潔く夫の命に従い私は死につこうと思います」と家臣に言い、その家臣が放った火の中で生涯を閉じました。戦場でガラシャの悲報を聞いた忠興はその場で泣き崩れたとも言われているそうです。

というのが京丹後市にゆかりのある細川ガラシャのお話でした。

小学生の頃から「歴史」の科目は苦手で、恥ずかしながら誰もが語呂合わせで覚えただろう平安京や鎌倉幕府の成立年すら覚えていない私ですが今回、初めて歴史が面白いと思えました。京丹後市にある「ガラシャ幽閉の地」、皆さんも是非行ってみてください。